ナスカ社設立者の体験記 Vol.1

ガンという病気は、そっと忍び寄り、突然 襲ってくるものです。私も例外ではありません。

39歳の時、私はアルミ建材業を経営し仕事も順調で毎月業績をアップさせていました。

余りの忙しさで寝る時間も4時間~5時間程度というハードさでした。

利益も上がり会社を大きくすることを目標に頑張っていた・・・。

そんな頃の1996年2月に突然吐き気をもよおす様になり病院にて診察後、胃薬をもらい飲み始めましたがいっこうに効かず、7月に検査をした結果、即入院するよう言われる。

私は説明を求めましたが先生も言いにくそうな表情をしていましたので、はっきりと言って下さいと
言いました。

すると先生は少しづつ病気の説明を話し始めました。

病名は「肝臓ガン」 (この時の体重63キロ、食欲あり)
肝臓にいくつも腫瘍があり、その上場所が悪い為、手術は出来ず「余命3ヶ月~6ヶ月」とのことでした。

それを告げられた途端、頭はパニックで真っ白。 なんで俺が……………。先生、嘘やろ・・・・・。

今、ここに来る前までゴルフ場(打ちっぱなし)で一汗かいてきたばかりやで、身体もどこも
痛くも無いし、なんで俺が余命3ヶ月~長くて6ヶ月やねん、そんなあほな・・・・・。
☆ 理由(毎月、糖尿病の検査と内臓関係の検査で病院にも通院していたし、吐き気をもよおす2ヶ月前には、肝臓、肺、胃、大腸の各ガン検診も受け、全て異常無しの検査結果だったのに・・・・。)
なんでやねん・・・・。怒り、悔しさ、何か判らない衝撃!

病院を出てどこをどう走ってきたか憶えがありませんが、なんとか家に着き、検査結果を妻に話しました。

二人とも涙が止まらず、絶望感でいっぱいでした。(まだやりたいことが一杯あるのにぃー、涙、涙)

2時間くらいたったでしょうか・・・・。私は「何が何でも生きよう絶対に生きるんだ。」と心に固く決意し、何か良い情報がないものか、まず書店に行き、ガンに関する本という本を全部買い込み、読みあさり、    どんな小さな事でも良いから ガンについての情報が欲しかったのです。

それでも、何かの間違いではないかと思い、他の病院でも検査を受けましたが、検査結果は、どこも同じで 余命3ヶ月~6ヶ月でした。                                                                                                            そして、免疫治療(BRP療法)を受け、 健康食品を摂りながら東北の玉○温泉に望みをかけ温泉治療に行きました。そこでは、ガン患者さんや他の病気の方々が頑張って治療をされており、見ず知らずの私にも心優しく接してくれ、沢山の愛情をもらいました。

何より、今の時代は他の人には無関心だし、金や欲ばかりの為に生きる人が多いと思っていたが、そこは全く別世界の、人々の思いやりや助け合い、人情味あふれる、本当に心癒される所でした。

 

源泉(強酸性泉)この廻りでも岩盤浴 岩盤浴(通称サティアン)廻りの煙は有毒ガス

ここの温泉の湯は鉄が溶けるほど酸性が強く(世界で2ヶ所)3日目あたりからは5分間も入れないほど痛い温泉で、その上、岩盤治療(1回、約40分)は低温ヤケドで身体中ボコボコ(月面クレーターの感じ)になります。
それを毎日、交互に3~4回づつ、やるのです。痛さと熱さの我慢くらべでした。
温泉治療のある日、突然腰に激痛が走りました。腰が曲がり、まっすぐ立つことが出来ません。

その時、間が悪いことに妻は歯にばい菌が入り秋田の病院に入院しており、私は車の中で横になっていることしかできませんでした。妻の退院まで、駐車場にいた人達が私に食事を作ってくれました。
(旅館は6ヶ月先まで予約で一杯で泊まれないガン患者さん達は車で寝止まりしながら温泉・岩盤治療をし、キャンセルが出たら泊まれるという状況でした)

退院した妻を病院まで、迎えに行ってくれたのも温泉で知り合った方達で、本当に助かりました。
(北海道旭川の鈴木 敏之さん(仕事、ハムの関係会社?)、探しています、連絡下さい)

激痛に耐えきれず痛み止めを飲みながら、妻の運転で仙台から名古屋までフェリーに乗り、なんとか大阪まで帰り着きました。

戻ってから妻が日本全国のガンの研究をされている方達に電話をしたところ、大阪大学の助教授より、
近畿大学病院(第一外科)で臨床試験が あるということを教えていただき、紹介していただきました。

そして、近畿大学病院(第一外科)で診察を受け、説明を受けますとアメリカからワクチン
(インターロイキン12)が届いてからなので、臨床試験は早くて10月末から11月上旬とのこと。

私は7月上旬に余命3ヶ月~長くて6ヶ月と言われているので、臨床試験まで生きていれるのか不安でしたが、精神的に負けてはいけないと自分に言い聞かせました。

臨床試験まで、あと2ヶ月余りあるため自宅待機をしていましたがその間も激痛との戦いです。

貰っていたモルヒネも1日1時間程度しか効かず、あまりの激痛のため、毎日自殺ばかりを考えるようになりました。激痛から逃れる方法が他に思い当たらなかったのです。

妻が買い物に行った隙に何度も首を吊ろうとしましたが、妻は子供に見張りをさせ、絶対に私を1人にさせませんでした。(9月16日 突然、食欲無くなる、体重59キロ その後、黄疸でる)

1996年10月21日近畿大学医学部(第一外科)に入院し検査をした結果、私の病気は9割方
悪性リンパ腫だとのことで、その後(第3内科)に変わる。

肝臓に10センチを最大に8つ程、脾臓に1つ、膵臓の裏に1つ、大動脈周りに2つ、左頬に1つ、見えるだけでもこれだけ在りました。(腫瘍で各神経節が圧迫されていた為、激痛で立つこともできず、検査も看護婦さんに車椅子をおしてもらって行く、看護婦さん達ありがとう)

インターロイキン12の臨床試験を中止し、第3内科の先生と話し合いの結果、今まで飲んでいた健康食品を一旦止めて、抗がん剤治療を受ける事になりました。(IVHを入れる)

抗がん剤治療は激しい副作用を伴いました。

入院していた病院

治療2日目の夜から身体が苦しく、ベッドの上に座ることも出来なくなり、激痛のうえに、酷い吐き気、耳鳴り、右半身、手、足のしびれ、39度~40度の発熱が起こり1週間後には身体全身の毛が全部抜け、頭はつるつる、、喉は荒れ舌は横から穴が空いてくる人の声がやまびこ(エコー)のように聞こえる、という酷い状態でした。
(幻覚見えてくる。副作用が酷く、口腔科、形成外科、耳鼻科と検査で異常見つかる)

その後、熱は2週間続きましたが、15日目~21日目にやっと
身体が起こせるようになりました。

治療後のCTレントゲン写真では「腫瘍の大きさは治療前とほぼ同じ」でした。

先生が病室に来られ2クール目の抗がん剤治療をすると言われましたが、
私は聞き入れませんでした。(1時間ほど押し問答)

しかし今まで止めていた健康食品を飲みながら治療を受けてみてはどうか、副作用が軽くなるかもしれない、などの提案にうまく乗せられ、受けることにしました。

(9月中旬から、食事取れず、体重49キロ、点滴で栄養を摂る)(以後、体重47キロ)

健康食品を取りながら2クール目の抗がん剤治療開始。

尚も激痛は続き身体も苦しかったものの、1回目に比べると楽だ、と感じましたし、
治療後のCT検査結果は私の目からも「腫瘍が小さくなっている」と分かりました。

1996年12月の始め頃、(ほんの少し、おかゆ食べれる、やせ細っている)歩行機を使ってロビーまで
行くと、皆が私を見てびっくり、まるでお化けでも見たような顔をします。

なぜなら、私は個室に入っていたので完全に死ぬものと思っていたらしいのです。

それから私は毎日ロビーに出てタバコを吸いました。

というより、人が恋しくてロビーに行くのです。

ふと周りを見ると同じような方が3人、5人、7人、と皆、煙草を吸っています。
(皆、どうせ死ぬんだから、煙草をやめても仕方ないという感じ・・・・。私も半分開き直り?)

そうこうして友達になっていきました。

毎日夜中の2時頃になると皆で煙草を吸いながら、
「明日は俺が死ぬ番かなあ…・・。」「いや俺の方が先やろ……。」と話しをしました。
(脳内出血や腸内出血、体内出血で突然死する)

そんな友達が1人、また1人と死んで行きます。

17歳の男の子、21歳の人、50代の人、60代の人、次から次ぎへと亡くなっていきました

1996年12月24日、先生がクリスマスプレゼントだといって3クール目の抗がん剤をもってきました。あまり嬉しいジョークではないが……・。

「健康食品続けて飲みながら」3回目の抗がん剤治療。この時には副作用も痛みも随分楽になっていました。